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執筆者の写真馬場精子

〜ヒト・コト・モノが出会う小さな演奏会〜琵琶と笛、そして朗読



 今年の夏は三つの演奏会があり、出演しました。その二つ目が、京都の伏見桃山にある素敵なサロン、La Neige で開催されたこちら「塩高和之琵琶コンサート〜ヒト・コト・モノが出会う小さな演奏会〜」です。


 塩高さんとはこちらラ・ネージュさんで3年前にご一緒したのが初めてでした。その時は『平家物語』より「敦盛最期」を樂琵琶とともに朗読しました。

 その後、東京のキッド・アイラック・アート・ホールで映像作家のヒグマ春夫さんによる「ヒグマ春夫映像パラダイムシフトvol.81」があり出演。樋口一葉の『十三夜』を朗読し共演させていただきました(尺八の田中黎山さんもご一緒でした)。





 昨年は大阪と京都で少し演目も変え、1日目がブリコラージュ(大阪)さん、 2日目をラ・ネージュ(京都)さんで 「響 vol.2 〜祇園精舎の鐘の聲 〜 塩高和之・琵琶 × 馬場精子・朗読」として上演いたしました。そして今年は笛の大浦典子さんも参加されることになり、ますます魅力的な会になりました。


 この日、ラ・ネージュを主宰されている四方有紀さんも仰っていましたが、有紀さんと私の出会いも、「ちょっとしたこと」がいくつも重なった結果なのですが、その「ちょっとしたこと」が無ければ、「今」がなかったのです。


 


 

 有紀さんのことが20年前に「京都新聞」に掲載されたのですが、私は当時その記事を拝見して「この方のサロンでいつか朗読をしたい」と思い、その記事を切り取り手帳にそっと挟みました。その後ホームページも拝見し、四方有紀さんのお人柄にも触れ、魅力を感じたのでした。


 それから10年が過ぎ...。京都商工会議所青年部様から、朗読の依頼を受け、国際会館で朗読をすることになりました。その後いろいろな偶然が重なり、初めてお目にかかることになったのです。お名刺を拝見した時は驚きました。「あの記事の方だ!」この演奏会の副題にもあるように、ほんとうに「ヒト・コト・モノ」が出会うって不思議なことです。偶然なのか実は必然なのかわからないと感じることも、人生の中にはありますね。





 

この日、第一部は笛と琵琶、琵琶と笛、それぞれの独奏でした。


 

琵琶奏者の塩高和之さんは『平家物語』の「壇ノ浦」を。実は私が第二部で朗読するのと同じところを演奏されました。体と心に染み渡る琵琶の音色。そして、朗々とした響きのあるお声。目を閉じると物語の世界に引きずり込まれます。



 「西風」はいつお聴きしてもいいですね。広く深い感覚に包まれ不思議な気持ちになります。


 大浦典子さんの笛は、お人柄そのままで、心に自然にすっと入ってくるのです。繊細さと大胆さ、奥深さを、どこまでも伸びやかな音色で表現されます。


 演奏会の最後にも、朗読と一緒に演奏してくださいましたが、物語とぴったりで妖しくも美しい響きでした。






 そして第二部は朗読と琵琶、笛で『平家物語』をお聞き頂きました。

 最初に笛が、そして琵琶が重なり、やがて朗読が入ってきます。「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。......」


 そして「鶏合壇浦合戦(とりあわせだんのうらのかっせん)」「遠矢(とおや)」と進み「先帝入水(せんていじゅすい)」へ。


 二位殿が幼い安徳帝を抱きかかえ、「わが身は女なりとも、敵の手にはかかるまじ...」と言うと安徳帝が「尼ぜ、われをばいづちへ具してゆかんとするぞ」このシーンは胸に迫るものがあります。「波の下にも都のさぶろうぞ」そして底の水屑(みくず)となったのでした。


そして「能登殿最期(のとどのさいご)」では建礼門院の髪が熊手にかかり、船に引き上げられてしまいます。実は、30年前。京都放送劇団の研究生だった時に、人見嘉久彦先生が放送劇団のために書かれた『いたずら熊手』という放送劇を府民ホールアルティのこけら落とし公演として上演することになりました。そこで私が「建礼門院」と「汀」という現代女性の一人二役で主演することになったのでした。その時から数えると朗読を始めて今年で30年になるのですね。意識はしていませんでしたが、その節目の年に再び建礼門院の熊手の場面を朗読することになりました。


 

アンコールでは、夏目漱石作『夢十夜』より「第一夜」をよみました。笛を天から降ってくるように陰舞台で演奏してくださいました。


この絵は会場に架かっていた東學さんが描かれた作品。「こんな夢を見た。腕組みをして枕元に座っていると、仰向けに寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。....」第一夜の冒頭です。あまりにも朗読する作品に合わせたかのようにその絵がそこに存在することに心が震えました。



 


夢十夜』より「第一夜」『朗読:馬場精子


 

 終演後、残れる方とご一緒にお茶会。笛のこと、琵琶のこと、お客様からの楽器についての質問にお二人がとてもわかりやすく解説してくださいます。お二人もですが、お客様も皆さまなんでもとてもよくご存知で、聞いている私も勉強になりました。自分は知らないことだらけだな...と思いますし、こんなふうに皆さんと話すことで知ったり考えたり深めたりできるのは、幸せなことだと思います。




 朗読についてもご質問がありました。作品には、様々な人物が登場しますが、その語りわけについてです。どうやって語りわけ、声を変えているのか。前にも書いたことがあるのですが、声色を様々に変えること、その技術はあって当然、できたほうがいいのですが、それだけで朗読における台詞を語るのは、それは違うと思うのです。

 



自分の声で語らないと、「芯」のある声にはなりませんし、「真」の心は表現することができないのです。作り物の声であってはなりません。「おじいさん」と言ってもそこには幾多の困難を乗り越えてきた人生があり、何気ない日常の経験があります。それは人それぞれ異なります。それを簡単に「これがおじいさん」の声とは言えないのです。それは「おじいさん風」の声なのです。



小三治師匠のお話を前にしたことがありますが、茂木健一郎さんが落語に出てくる登場人物の声の語りわけに感心して「ここでちょっとやってみてください」とお願いすると、師匠はしばらく考えた後「できねぇな」とひと言。私は自分の考えていることが間違いではないのだとその時、確信しました。



 朗読して30年。放送劇団にいた頃は、ホール公演出演がほとんどでした。大きな会場で華やかに朗読する舞台はもちろん素敵です。でも、こうしてマイクを通さないで私の声をお聞きいただき、いろいろな方とおひとりおひとり、ゆっくりとお話できる時間を持てることに、表現することの幸せを感じます。心に残る演奏会でした。

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